人は人から学ぶ

最近おじいちゃん化してきたポンタです。

中学生にしろ、高校生にしろ、入塾して一番先に学んでもらうのは「とにかく私に質問する事!!」です。

「解き方がわからない時は勿論のこと、それ以外でも自分で出した答えが『なんか変だな?』と困ったり、『この式の書き方は大丈夫だろうか?』と迷ったりしたら…とにかく私に質問する!」事です。

それぐらい、もしや「質問しない誓い」でも立てているのか?と不安になる程、多くの子は質問しません。

分かっているから質問しないのでしょうか?…いえいえ。

特に応用問題ではない1問に20分もかかっているのに(書いたり消したりを繰り返しているのに)「分からなかったら聞いてね」と声をかけても質問しない。

…「自分1人の力で解かなければ勉強にはならない」のだとしたら、塾に通わなくても良いのでは…?

20リットルしか入らない水槽に「15分後には何リットルの水が入っているでしょう?」と問われて答えに「40リットル」と書いてくるので「変だな〜?と思わなかった?」と聞くと「思った…」と。

…何故「変だな〜?」と思ったその時に質問しないのか…

「出来ました」と出してくるプリントの何番目かに答えが無いので「ここ、書き忘れてない?」と聞くと「そこは分かりませんでした」との返事。

…何故分からなかったその時に質問しないのか…
そして何故それをそのまま「出来ました」と出してくるのか…

長年疑問だったのですが、先日ふと閃きました。

「あっ!
中学も高校も先生が1人で喋っていて(授業していて)生徒は指名されない限り発言しないからでは?!」
「勉強って自分から発言(質問も含めて)するものでは無いと思わされているのでは?」
(グループ学習とやらもあるそうですが、それはまた別として)

「先生が「ここまで質問ありませんか?」と問うことはあっても、それが自分に対して言われているとは思っていないのでは?(せいぜい挨拶程度の意味しか無いと思っているのでは)」

この数年急速にタブレット学習だのAIがどうのと「新しい学習法」が謳われていますが、私としては「そういうもので学力はつかない」と思っています。

「主体的に勉強する」というのは、自分が考えている方向(この答え、式、グラフ)で良いかかどうか判断するところから始まるし、判断出来なければ「これで良いですか?」と教える人に尋ねる事、から始まると思います。

教える側は、質問した子の状況に応じた軌道修正を示すべきです(定義に戻るよう促したり、方向性を修正したり)。

これが教えられる側と教える側の大切なコミュニケーションだと思います。
勉強に限らず人間が成長する際に必須の交流なのでは無いでしょうか。

「学ぶ」事に妙なプライドを持ち込んだり、逆に他人事のような「勉強」に悪慣れした(させられた)子が毎年やって来ます。

彼ら彼女らを「先生、ここ分かりません!」と堂々と質問する子に育てるのが私の仕事なのかもしれません。