「分からない」に慣れきった子どもたち

長く教えていて未だに慣れないのは、あり得ない解答を出してきた子に「何処からこの答を導いたのかな?」と聞いても答えが帰ってこない(または「なんとなく」「雰囲気で」と答える)ことです。

現実ではあり得ない、とんでもなく的外れな答を書いて悪びれない子どもたちを見ていると、彼らにとって如何に算数、数学が「自分の生活とは何の関係もない物」であるかを思い知ります。
それは目眩がするほどのものです。

曰く、家から学校までの距離が「300㎞」
曰く、「容量70リットルの水槽に100リットルの水を入れる」
曰く「方程式で母の年齢と子どもの年齢が等しいという立式」
などなど、毎年、目眩の種が尽きません。
己の貧血を疑うほどです。

子どもたちは「計算間違いでした」などとサラッと流すのですが…そういうことじゃないのでは?と思えます。
問題の答として「どんな量が適切なのか」に興味関心が無いのでしょう。

問題の趣旨に全く沿わない立式を見ると
「分からない時は適当に式を書いちゃだめだよ?先生に質問しようね。
分かりませんって言ってくれれば良いんだよ?」
と、都度都度声かけするのですが、なかなか質問してくれません。
では、自分の解答に自信を持っているのかと言うと…そうも思えません。

子どもたちを見ていて気づいた事があります。
最初は適当な答を書いてきた子が「先生、ここの所がよく分からないんですけど…」と質問にくるようになると、学力が伸び始めるのです。
何回声かけしても、明らかに「分かっていない」(あからさまに言えばデタラメの)答案を出し続ける子の学力は、残念ながらなかなか伸びて行きません。

後者の子どもたちは、「分からない」事に慣れてしまっているのでは?
「分からない」事が通常の状態なので、「分からない時は質問しようね?」と言われてもピンと来ないようなのです。
学校で詰め込まれた知識の中で、偶然生き残っていた事柄を(彼らなりに)それらしく配置して式と答を書いてみる…。
その答が合っていれば「ラッキー♪」だし、違っていれば他の「配置」を試してみる…そんな事が彼らにとっての「勉強」であるように思えます。
そんな「勉強」の何処が楽しいでしょう?

どの子にも「あっ、そういうことだったのか!」と目から鱗が落ちる体験をしてもらって、少しずつでも算数、数学の力や魅力を感じて欲しいと思います。

「分からない事に慣れ親しみ過ぎて、分かる楽しみに心が向かわない」子どもたちが、どうしたら「え、そうなんだ!」と驚いてくれるのか。
変化を目で追える動きのある教具、自分で操作する事で身体で理解するタイル、図に加えてイラストや可愛いぬいぐるみで情感に訴えてみる、BGMが楽しい動画…などなど、模索する日々です。
「分かっていく楽しさ」を、全ての子どもたちに知って欲しいと思います。